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カクテルとダンディズム

第三回のソレラの会での映画とカクテルの話に関連して、広門泰三さんからとても刺激的な質問が寄せられました。こちらに別項としてその質問をあげ、僕なりの意見を整理したいと思います。泰三さんからの質問の骨子はこうです。「映画007に見られるようなカクテルがダンディズムの象徴として『カッコイイ』という概念はいつ頃、どの様にして誕生したのでしょうか?」

(『ガリレオ』の福山雅治ではないですが…)実にオモシロイ。カクテルにはカクテルの歴史がある一方で、それとは別に「ダンディ」や「かっこよさ」という価値観にも歴史がある。両者が結びつけられて、論じられてきたことは、きっとなかったはずです。けれど、一般的にいって、どの時代・どの地域でも、人間は、あるモノに対してそのモノになんらかの意味やイメージ、象徴をこめて扱おうとする傾向がある。(その傾向を、その時代・その地域の「文化」の枠と言っても良いかも知れません。)この質問は、そうした人間がつくりあげる「文化」の特性をつく問題だから、実にオモシロイのです。

この質問への僕なりの回答を、まずはダンディズムの歴史を確認するという点からはじめたいと思います。そもそもダンディという概念がヨーロッパの歴史のなかで登場するのは、18世紀末以降の「市民」を主人公とする社会が到来して以降とのことと言われています。「ダンディ」とい言葉自体がそれまではありませんでした。もちろん「名誉」や「栄誉」といった価値観は古くからあって、それは例えば「良きキリスト者」だとか、「主君への忠誠」だとか、それぞれの時代・それぞれの地域を支えていた世界観に良く合う生き方をしていた場合に得られる価値だったと言えます。しかし18世紀末以降うまれた「ダンディ」という価値は、そうした価値とはちょっと性格が異なります。

そもそも「ダンディ」とは、「市民」社会が示した平等主義の価値に抗して、自分自身のライフスタイルを追い求めた人であったといえるでしょう。例えば、中産市民の出身であったに関わらず、貴族のような外見、弁舌、振る舞い、趣味を追い求めた人がそうです。それまでの「名誉」や「栄誉」が社会通念や世界観における「理想的人間」に適した場合得られたのに対して、「ダンディ」とは市民社会が提示した「人間はみな平等」という通念に抗して、他人との差を誇るところに「粋」を見いだすものでした。

それを「格好良く」思うかどうかは、そうした「ダンディ」を気取る人たちの姿を受け取る側の問題です。それぞれの時代・それぞれの地域を支える社会通念や世界観の示す理想的人間を「格好いい」思うか、そうした社会通念や世界観に抵抗する人間を「格好良い」と思うか。これは個人の主観的問題なので、あえて総括することはできないと僕は考えています。(例えば、忠臣蔵の赤穂浪士を考えてみたときに、主君への忠義に殉じた彼らを格好いいと考えるか、時代遅れな連中と考えるか。その受け取り方は様々でしょう。)

さて、「ダンディズム」が自らを他者と差別化する生き方と定義する場合、自らを演出する様々なアイテムが必要になります。「ダンディズム」という生き方が定着しはじめた19世紀という時代は工業化の時代でもあり、一般の市民も様々な商品を自らの財力と意思で選択し、消費できる時代になっていました。自給自足的な生活のなかで生産・消費されていた酒も、この時代以降量的にも質的にも膨大に生産されるようになります。

カクテルの起源は、本来飲みやすさを求めて複数の飲料あるいは果実、調味料をまぜあわせるものだったわけですが、先日のソレラの会で山本さんからお話を頂いたように、例えばインドでアラックをベースとして現在のパンチカクテルの原型が築かれたときにすでに、それを好んだ王侯たちは、他の人たちがやらない飲み方を工夫することで、自らの差別化を楽しんでいたのかも知れません。

19世紀以降の酒の種類と生産量の増加は、ダンディを志向した人たちにとって、自らを他人とは区別する際に格好のアイテムを得たということになるでしょう。現代のカクテルの発展は、様々な種類のスピリッツ、人工製氷、炭酸水、ボトリングなど、新たに開発された様々な技術を応用しながら、バーテンダのみなさんが鋭意、創意工夫を凝らしてきた結果ではありますが、そうしたバーテンダの創意工夫を積極的に受け入れ、消費していった側の一つに、他人とは違う飲み方で粋を求めたダンディズムを志向する人々(…ダンディズムを志向する人々は、先ほどの定義から言えば、何も男性に限られたことではなく、女性も含まれます…)がいたわけです。

およそ、「カクテルとダンディズム」の関係は、以上に述べたように、19世紀以降にうまれたと整理できると思います。では、それが、広く世の中で「カッコイイ」とされていくのはいつ頃か?なにをもって「カッコイイ」とするかは受け入れる側の問題だとは述べましたが、社会における「カッコイイ」の基準が世界的にみて同一規格化されていく時代が、20世紀も第一次世界大戦以降になると到来します。大量消費社会と世界的なメディアの登場です。

世界の経済は16世紀の大航海時代以降、徐々にヨーロッパを中心とした秩序に構造化されていったと理解されています。しかし、そうは言っても19世紀くらいまでは情報を均一に世界に普及させる手段はなく、消費パターンは世界の地域の実情に応じて様々だったと思います。それが、20世紀以降になると、ラジオ、映画、テレビ、インターネットなど、世界をつなぐメディアの普及によって、画一化された情報が国境を越えて世界を飛び交う状況が訪れます。1920年代以降、アメリカを源とする大量生産・大量消費型のライフ・スタイルが世界を覆いつくすようになったと言われますが、消費者の動向は、世界をつなぐメディアが普及させた情報、そしてそうした情報によってつくられていく社会の流行に左右されるようになりました。

今回のソレラの会でお話をした映画は、大量消費社会にあう形で画一化されたライフ・スタイルを世界に普及するのに絶大な影響力をもったメディアでした。映画のなかで美麗な俳優たちが演じる人間像、その生き方、それに登場する小道具は、それを見た世界中の人たちの消費行動を大きく左右するようになります。こうしたときに、「あのカクテルを飲むとカッコイイ」といったイメージも、世界的に普及するようになったと言えるのでしょう。

しかしここで僕たちは大きな矛盾に直面していることに気がつきます。つまり、なにが「カッコイイ」と感じるかは、本来それを受け入れる側の主観の問題だったにもかかわらず、世界的なメディアの影響下で大量消費生活を送っている僕たちは、無意識のうちに、メディアを通じてつくられた「カッコイイ」のイメージによって、「カッコイイ」の基準を画一化させられてしまっているということです。だから、このような時代にあっては、「ダンディ」を演じようとしても、他人と自分とを差別化しようとする目的で使われるアイテムも、実は「ダンディ」を演じようとしている人の間では、みんな似通ってしまう。(もし日本全国のオヤジが『LEON』などに感化されて、みんなが「ちょい悪」スタイルになってしまったら、日本オヤジのスタンダードになった「ちょい悪」は、全くカッコヨサを失うはずです。)

実際にバーへ行って、ジェームス・ボンドのような「ダンディ」を演じようとボンド・マティーニを注文しても、それがいささか滑稽に見えてしまうのは、「ダンディ」を演じたいと考えている人のみんながみんな、同じようにボンド・マティーニを注文してしまっては、「ダンディ」の本質である自分と他人との区別化を図ることができない…そんなところに理由があるのかも知れません。現実の世界では「あの人はダンディだ!」と誰もが認める人になかなか出会えませんが、ことほどさように、現代とは「ダンディ」を演じるのが難しい時代なのでしょう…(ため息)。

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コメント

古谷先生大変お忙しい中、懇切丁寧な講義をありがとうございます!

平等主義の浸透からの反動としてのある種の「美学を追求する生き方」の格好よさの誕生の話、人間というもののあり方が浮き彫りにされるようで「実にオモシロイ」ですね、

講義のつづきを楽しみにしております、
どうか先生のご無理の無いように、ゆっくりとカクテルとダンディズムの話をお待ちしております。

投稿: 広門 泰三 | 2008年10月12日 (日) 07時35分

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